「ペスト」
2009年 06月 08日
カミュは「異邦人」を高校の時に読んで、衝撃を受けた。一発でカミュの信奉者になったけど、彼の小説は異邦人しか読んだことがなかった。今回のペストは小説が発表された当時はかなり熱狂的に受け入れられたようだけど、私の感想は異邦人ほどの衝撃はなかった。異邦人は個人的な物語だけれど、ペストはある街全体の物語で、街全体の作り物語が読んでいる私に少々信じきれなかったせいか、もしくは複雑すぎて読解できてないためか、凄い小説を読んだ時に感じるエネルギーが感じられなかった。この物語は対ナチス闘争を寓意的に書いている、という側面もあるそうで、そういったことが肌身に感じられないせいもあると思う。
あとがきを読んであらためて感じたことだけども、作家の分身とも言える人物が多すぎてエネルギーが分散されたようにも思う。あとがきでは”タルーはリウー(医師、小説の語り手)の分身”であり、”老吏グランはリウーの投影”、”喘息病みの爺さんはタルーの投影”とある。若い新聞記者ランベールはある意味でこの小説の真の主人公と言いうる、ともある。私が感じたのはタルーとリウーと新聞記者ランベールは全て作家の分身ではないかということで、物語は全てほとんど同一の男性から語られ、女性は向こう側にあるもので、憧れ、慰みでしかないという点もこの小説の物足りない点だった。しかし、戦争や闘争は男性中心の物語であり、それは当然なのかもしれない。そうであるためか、そういった闘争から離れたところにあった老吏グランの物語はしんみりした。彼は亡くなってしまうか、というところで彼の小説の秘密があかされて、薄々思っていたけどそうじゃなければいいが、と心の中で庇っていたことが明らかになった上で、なんと彼が生き返ってしまうのにはびっくりした。悲劇的になりきらない人物、という老吏グランをよく表現できていると思う。彼は生き返ってしまうというのにタルーはなんとあっけなく亡くなってしまうことか。判事オトンの変遷にもしんみりした。タルーの物語では・・・
最近、私は事件、特に殺人事件についてネット上に転がっている情報を読み歩くのが一種の趣味のようになっている。それは「カッコーの巣の上で」という映画を見た後、ロボトミー手術について調べているときにロボトミー殺人事件という事件にたどり着いたときからはじまった。(特に惹きつけられた文章はこちら→(1)(2))以来、リンクした月刊「記録」の中の「あの事件を追いかけて」というカテゴリーの事件を中心に、例えばつい最近のDNA鑑定がなんとかいう事件など、色々と読んでは事件の中の人物たちの数奇な人生、人生の綾にため息をついている。なぜ自分はそんな極端な人生の記述に惹きつけられてはため息をついてまわっているのか?今回「ペスト」のあとがきを読んで、久しぶりに「不条理」という言葉を見たが、私が読んでいたもの、惹きつけられていたのものは、いまだに不条理だったのではないか、ということに思い当った。